悪夢にうなされて目を覚ますという経験を、一度もしたことがないという人はまれだろう。はてしなく墜落する夢や、何者かに追跡される夢に、誰もが一度や二度はうなされたことがあるにちがいない。単純な不安や恐怖が、夢に現れることもあるだろうが、しかし、意識的な反省が容易に届くていどの不安なら、身の凍るような悪夢として私たちを悩ませたりはしないにちがいない。夢が本当に恐ろしい悪夢となって私たちを襲うのは、実は、その悪夢が私たちに恐怖を呼び起こしながら、しかも私たちの心の奥底に潜む現実と絡まり合っているからである。たとえば、単に怖れているのではなく、恐れながら待ち望んでいるという複雑な心的状態、自分でも明確には自覚していないその心的状態によって、夢は悪夢になる。

夢の中で、得体のしれない魔物が追いかけてくるとき、私たちは、ほとんど耐え難い恐怖とともに、街角を、あるいは森の中を、さらにはどことも知れない暗闇の中を、全力で走り抜け、逃げおおせようとする。しかし、どんなに走っても魔物は追いかけてくる。それどころか、しばしば足が鉛のように重く感じられ、とてつもない力が必要になってくる。早く逃げたいのに、思うように足が動かず、冷や汗を流しながらもがきにもがいている……こうした状況は、たんに不安に襲われているというような、単純な心理の現れなのではなく、逃げたいにもかからわず、しかも捕まえられたいとも思っているという、矛盾した願望の現れだと、フロイトはいうのである。
私たちを追いかけてくる魔物が、単なる有害な敵であったり、望ましくない状況の記号にすぎないなら、その悪夢は、まだ悪夢としての十分な資格を備えていない。そうではなくて、その魔物が、私たちにとって単純に除去すべき敵なのではなく、まさに私たちが恐怖しつつ、心のどこかで待ち望んでいる存在でもあるとき、夢は、真に悪夢となる。いや、待ち望んでいるというのが言い過ぎなら、少なくとも、その魔物の出現に対応する何らかの心的傾向が、自分の中に潜んでいると言い換えてもよい。
たとえば、病因を除去すれば治癒する病気は、まだしも恐ろしい病気ではない。病気の原因をなす部分が、生体を維持するシステムと複雑に絡まり合っているときこそ、病気は恐ろしいものになる。たとえば、自己免疫疾患といわれるものは、その典型である。そもそもは、外敵を除去するためのシステムが、自己の生体に自殺的に機能してしまうとき、事は容易ではない。生体を生体として維持するためのシステムが、同時に、生体を破壊するシステムにもなってしまっているわけだからである。システムが生体を破壊する。かといって、そのシステムの除去は、生体の喪失を意味するわけである。
悪夢とは何か。私たちに襲いかかる魔物が、私たちの意識にとって敵であるかのように見えながら、しかも同時に、その恐怖の対象である魔物が、意識を超えたところで、私たちにとって不可欠な存在であるとき、夢は悪夢となる。単純に言ってしまえば、もともと、私たちが生きている現実とは、恐怖に満ちた恐ろしい魔物の層を、かろうじて抑圧しつつ成り立っているのだ。そのもっとも極端なものは「死」である。死は、私たちの意識には敵であるように見える。しかし、意識を超えたところにある、私たちの存在それ自体にとって、おそらく死は不可欠の構成要素にほかならない。

悪夢から覚醒したとき、私たちは、やっと現実へと復帰することができたと感じ、ほっとする。けれども、夢が非現実的で、日常的な覚醒状態が現実的であると、どうして私たちは確信することができるのだろうか。私たちが起きているときに「現実」だと思っている世界は、夢と同様、私たちが織り上げたものなのではないだろうか。夢がでたらめで、現実が確かなものであるというとき、私たちは、あたかも夢と現実を、相反するものとして対立させてしまっている。しかし、実のところは、私たちが、いかに夢をみるかというその形は、同時に、私たちがいかに「現実」を織り上げるかという形の原型ではないのだろうか? すなわち、覚醒とは、睡眠中の「夢」から、日常的世界というもう一つの「夢」へと移行することを意味するのではないだろうか?
さて、もし私たちが、フロイト以降、夢に関してしばしば指摘されていること、つまり、昼間の日常的世界において抑圧されたものが、夢の中で出現するという指摘を肯定するなら、次のように言ってよいのではないか? 夢の中にこそ、昼間の意識には隠されている現実の相が出現しているのだと。
すなわち、私たちが夢と名づけ、現実と呼んでいるものは、単純に対立するものなのではなく、どちらもがそれぞれ異なる水準で、実は「夢」なのであるとも言えるし、また、異なる水準で、「現実」なのだとも言えよう。昼間の日常的意識が見ている世界の中にも、夢が存在するのであり、睡眠中の幻覚の中にも現実があるというべきだろう。
そこで、私たちが覚醒することによって復帰した日常的世界が、実は夢の恐怖からの逃避先であると考えてみよう。つまり、実は、夢の中でこそ、私たちは現実そのものの恐るべき本質に出会っているのであって、その恐怖に耐えられず、「現実」という名の今ひとつの夢に眠り込むことを、覚醒と名づけているのではあるまいか。そもそも、私たちが「現実」と考えているものは、私たちが、都合の悪いものを抑圧し、目障りなものを意識の外に排除して、意味的に完結させている像にすぎない。つまり、私たちは、悪夢から「現実」へと復帰しているというよりも、悪夢として出現する現実の本質から、「現実」という名のもう一つの夢へと逃避したにすぎない。
得たいの知れない魔物に追跡され、もがきながら逃げるというのは、私たちの日常的な意識からすれば、非現実的な幻覚にすぎないだろう。だが、その悪夢の中にこそ、ふだんは隠されている現実の姿が露呈しているとすればどうだろうか。たとえば、その魔物は、「死」であるかもしれず、「責め」であるかもしれず、「善悪の無根拠性」であるかもしれない。そもそも「死」が私たちの生の前提であるということや、生きる以上、必ずや何らかの「責め」を負わねばならないということ、また、善と悪との区別が実は自明ではないということ、こうしたことこそが、悪夢のような私たちの現実なのである。
私たちは、「死」や「責め」や、「善悪の無根拠」といった事態を忘却することによって、日常的な現実を手に入れる。私たちは負債を抱えながら、あたかも負債がないと思いこむことによって、世界を組み立てているのだ。だが、私たちが日常的に「現実」だと思いこんでいるものが、実は負債の隠蔽によって成り立っており、むしろ、その負債が魔物の姿をとって追跡してくるということこそが、現実そのものではないのだろうか。
負債の返却は可能だろうか? たとえば、私たちが死を超越することは可能だろうか?
もしその超越が、際限なくこの生を持続するという意味でいわれているなら、そうした超越は不可能だと言わねばならない。この生は、死を不可欠の要素として抱えているのだからである。生成と消滅は、対立した概念ではない。生成とは変化であり、変化とは、有から別の有へと移りゆくことである。有が別の有へと転移するとき、あるものは死に、あるものが生まれるのだ。生成が可能なのは、生成するものの中に、死が潜んでいるからである。
私たちの生は、死と対立して存在しているのではない。私たちの生は、いつもすでに死につつあるのだ。死につつあることによって、生は変化する。そして生の中の死が徐々に拡大し、いずれ生は、自らの内部にもともと存在した死に、呑み込まれるのである。繰り返せば、生は死と対立するというより、死あるがゆえに、生もあるのであり、生あるがゆえに死もあるのだ。生とは、死につつあることを言うのであり、死の除去とは、同時に生の廃棄を意味するだろう。
それゆえ、いかに逆説的に響こうとも、私たちが本当に死から逃れようと思うなら、生を放棄するしかない。なぜなら、死んでしまえば、二度と死ぬことはないからである。生きることがないとは、死ぬことがないということであり、死ぬことがないとは、生きていないということにほかならない。
生を廃棄すれば、すなわち、人間が死んでしまえば、もうその人間に死が訪れることはない。死が訪れないようにするためには、生を捨てるしかない。だから、私たちが生きるとは、死を抱えるということなのだ。
繰り返せば、死が生の条件である以上、生の持続というかたちで、負債を返却することは原理的に不可能である。だが、この生を、負債の忘却によって営むのではなく、負債の自覚によって高めることは可能である。負債を知り、負債を自覚しつつ、自らの生を組み立てようと試みること、そのとき、負債は負債でなくなるといわねばならない。なぜなら、死そのものが負債であったというよりも、死の忘却が負債であったというべきだからである。死と生が不可避に連結しているなら、死の忘却は生の忘却を意味するのであり、死の自覚は、生の自覚を意味するのだ。言い換えれば、負の自覚は、その「負」を補うべき「正」を呼び戻す唯一の手だてである。
追跡してくる魔物を除去することはできない。そうしたかたちでの負債の返却は、実は返却ではなく、踏み倒しであって、その後、魔物に呑み込まれるに至るまで、逃亡生活を余儀なくされるであろう。悪夢は、非現実的なのではなく、「現実」という名の夢の根底に横たわる、もう一つ現実、ふだんは隠されている現実の姿の暗示なのだ。すなわち、悪夢は、そこから覚醒すべき幻覚なのではなく、むしろ私たちの日常的現実こそ幻覚に満ちているということを警告するのである。